― 武士道を子育てに取り入れた理由 ―
はじめに
なぜ、子育てに武士道なのか
子育てをしていると、よくこんな場面に出会います。
- どちらが正しい対応なのか分からない
- 叱るべきか、見守るべきか迷う
- 子どもの選択を尊重したいが、失敗させるのが怖い
現代の子育ては、「正解」を求められる場面があまりにも多い。
だからこそ私は、
「正解を教えるための理論」ではなく、「生き方の軸」になる考え方として、
武士道を子育てに取り入れています。
武士道は、
うまく生きるためのマニュアルではありません。
迷いながらも、
どこに判断の基準を置いて生きるのか。
その姿勢を問う思想です。
その中でも、子育てと最も相性がいい徳が、義だと考えています。

義とは何か
武士道における「義」は、
しばしば「正しいこと」「正義感」として説明されます。
しかし、それだけでは、
武士道における義の本質を捉えたとは言えません。
義は、
善悪判断の巧拙や、結果の良否を評価する徳ではありません。
義とは、判断の基準をどこに置き、
その判断をどのように引き受けるかに関わる徳です。
……と言われても、正直、少し分かりにくいですよね。
ここから、できるだけ噛み砕いて説明していきます。
義は「判断の軸」である
義とは、
感情・損得・一時的な状況に左右されずに、判断を下すという考え方です。
恐怖や怒り、
利害や周囲からの評価は、
判断材料にはなり得ます。
しかし、それらが最終的な基準になってはいけない。
義とは、「どの筋を通すのか」を決めること。
この一点が、最も重要です。
義は「結果」ではなく「プロセス」を問う
武士道では、
行為の評価を結果だけで決めません。
判断した時点での
- 状況
- 立場
- 責任
- 覚悟
これらを踏まえて下した判断を、
途中で都合よく書き換えないこと。
それが、義です。
結果的に、最悪の事態になるかもしれません。
判断が間違っていたと後から分かることもあります。
しかし、それは本質ではありません。
武士道において重視されるのは、
最初に通した道理や筋を、
不利になっても翻さなかったかどうか。
ここに、義の核心があります。
義と他の徳の関係
義は、他の徳を成立させる前提に位置づけられます。
- 義なき仁は、私情に流れる
- 義なき勇は、無謀になる
- 義なき礼は、形式に堕する
- 義なき誠は、自己満足に終わる
だからこそ、義はしばしば
武士道の基盤となる徳として扱われてきました。
義は「教える徳」ではない
義は、言葉で理解させることが難しい徳です。
なぜなら、
義は状況や立場によって、具体的な形が変わるため、
一律の正解を提示できないからです。
そのため、武士道的な文脈では、
義は「説明されるもの」ではなく、
行動の一貫性を通じて体得されるもの
とされてきました。
例えば、こんな場面
あなたの子どもが、
いじめをしていたことが発覚したとします。
あなたなら、どうしますか。
- 我が子に「いじめはいけない」と説教する
- 我が子と一緒に学校へ行き、事実を確認する
- 我が子から事情を聞く
- 我が子と共に、相手の家へ謝罪に行く
ここで大事なのは、
どれが正しいかではありません。
義とは、親としての行動の一貫性を通じて示されるものだからです。
だから、私が親なら④を選びます。
子どもがどうするかではなく、
親として、どう振る舞うか。
子どもの言い分や、学校の都合に振り回されていては、
子どもは、親の姿勢そのものを見ています。
子育てにおける義とは
子育てにおいて義が問われるのは、
子どもが選択を迫られたときです。
- どの道を選ぶか
- どの行動を取るか
- 失敗したとき、どう向き合うか
重要なのは、
親が正解を用意することではありません。
子ども自身が選び、
その結果を、自分の経験として引き受けること。
ここで、親の義も問われます。
子どもの選択を尊重すると決めたのであれば、
途中でそれを覆さないこと。
最後まで、
その選択の結果を子どもと共に背負うこと。
親が義を持たなければ、子は義を持つことはありません。
これは断言できます。
義は、模倣によって内在化される徳だからです。
「この親にしてこの子あり。」
「親の顔が見てみたい。」
この二つの言葉が聞こえるとき、
そこには、義の欠如があります。
おわりに
義とは、
正しい人生を生きるための徳ではありません。
- 自分で判断し
- 筋を通し
- その道理を引き受ける覚悟を持つこと
子育てにおける義は、
生き方そのものに関わる基盤です。
そしてそれは、
親から子へ、静かに引き継がれていきます。
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