― 親という立場にある者のための徳 ―
武士道における「仁」は、
よく「思いやり」や「優しさ」と説明されます。
でも、本来の意味はもう少し厳しい。
仁とは、
力を持つ者が、相手のためにどう振る舞うかを問われる徳です。
立場がある者。
決定権を持つ者。
守ろうと思えば守れてしまう者。
そうした人間が、
自分の感情や都合ではなく、
相手の成長を基準に行動できるか。
それが、仁です。
だから武士道では、
仁は「最も高い徳」とされています。
親であるということは、仁を引き受ける立場にいるということ
この「力を持つ者」という前提を、
そのまま子育てに当てはめると、
一つの事実に行き着きます。
親は、子どもに対して
圧倒的に強い立場にいる。
止められる。
決められる。
守れる。
そして、支配もできてしまう。
だからこそ、
親の振る舞いは常に「仁」を問われている。
親として子に関わること自体が、
最も高い徳を、日常的に行使している行為
だと言っていいと、僕は思っています。
僕の子育ての根底にある考え方
僕の子育ての中心には、
ずっと変わらない考えがあります。

転ばないようにするのは、親の役目ではない。
転んだときに、どう立ち上がるかを学ばせるのが親の役目。
そして、
転んでも再起不能になるような
転び方をしないようにするのが、親の役目。
すべての困難を取り除かない。
でも、致命傷は防ぐ。
経験する機会は奪わない。
ただし、人生が壊れるところには手を出す。
これは、
仁を子育ての現場に落とした形
だと思っています。
理不尽に怒ることは、仁から外れるのか
僕は、
親はときに理不尽に怒っていいと思っています。
なぜなら、
社会に出れば理不尽は避けられないからです。
えこひいき。
ダブルスタンダード。
あの人は許されるのに、自分は怒られる。
そんな世界で折れない心を育てるには、
家庭の中で
安全に理不尽を経験する場
があってもいい。
大事なのは、
理不尽に怒ったかどうかではありません。
そのあとに、
- 感情をどう扱うか
- 行動をどう立て直すか
- その出来事をどう意味づけるか
ここまで含めて、
子どもは学んでいます。
だから、
「理不尽に怒ってしまった」と過剰に後悔する必要はありません。
それもまた、成長の材料です。
仁とは「助けること」ではない
ここで、一つの場面を考えてみます。

夏休みに
「友達と宿題してくる」と出かけた子どもが、
実は自分の宿題を
友達に写させていたと分かったとき。
あなたなら、どうしますか。
- 娘に実害はなさそうなので、放っておく
- 友達のためにならないから、やめた方が良いと諭す
- 友達が困るという結果を、自分で知るまで知らぬふりをする
どれも、選択肢です。
僕が娘に伝えたのは、こんな言葉でした。

困っている人を助けたいと思う気持ちは、とても大切。
でも、助けることが必ずしも相手のためになるとは限らない。
助けることで、その人が
「自分でやろう」
「できるようになろう」
とする過程を、奪ってしまうことがある。
仁とは、
相手を楽にすることではありません。
相手が成長する過程を、きちんと通らせること。
さなぎの話
蝶になる直前、
さなぎは身をよじりながら、
もがきながら、自分の力で殻を破ろうとします。

見ている側からすると、
とても苦しそうで、つらそうに見える。
「そんなに苦しいなら、手伝ってあげたい」
そう思うのは、ごく自然な感情です。
でも、そこで外から殻を破ってしまったら、どうなるか。
羽は十分に乾かず、
体は軽くならず、
その蝶は飛ぶことなく、地面に落ちてしまいます。
子育ても、これと同じです。
苦しんでいる姿を見るのは、
親として本当につらい。
でも、その苦しさを通らなければ、
身につかない力がある。
だから、
助けないことも、仁。
見守ることも、仁。
一歩引くことも、仁。
僕なりの「仁」の現代語訳
ここまでを踏まえて、
僕は「仁」をこう言い換えています。

仁とは、
相手の成長を思い計って、
自分の行動を選ぶこと。
優しくするか。
叱るか。
黙って見守るか。
止めるか。
そのどれを選ぶかを、
相手の成長を基準に考え続けること。
親であるということは、
その判断から逃げず、
引き受け続ける立場にいるということ。
だから、
親であることそのものが、
最も高い徳なのだと、
僕は思っています。
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